
少し前まで、私は育児にかなり疲れていた。
夏休みも終盤。
毎日、娘と二人きりで過ごす時間が長くなり、
遊びに付き合うこともしんどくなっていた。
娘は可愛い。
それなのに、触られることさえ嫌になる瞬間があった。
自分でも驚くほどイライラして、
「母親をやめたい」
と思った日もあった。
そんな日が続いていたから、
娘と二人で映画を見に行こうと思ったのも、
最初から前向きな理由だけではなかった。
正直に言えば、
映画なら、しばらく「間が持つ」かもしれない。
そんな期待もあった。
- 家にいるより、映画なら一緒にいられるかもしれない
- パパとでは怖い映画も、ママとなら見られる
- 映画が終わる頃、娘の見え方が変わっていた
- 家では「母親と子ども」になりすぎるのかもしれない
- 帰り道まで、楽しかった
- 「子どもと遊ぶ」だけが、一緒に過ごす方法じゃなかった
- 家にいた方が安全だと思っていた
- 家でじっとしている方が辛い日もある
- 5歳の娘は、守るだけの存在ではなかった
家にいるより、映画なら一緒にいられるかもしれない
私はもともと、子どもの遊びに付き合うのがあまり得意ではない。
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娘の好きなブロックや工作に、
何時間でも付き合えるタイプではない。
かといって、私が提案する遊びを娘が気に入るとも限らない。
夏休みの終盤は、
その小さなすれ違いの積み重ねにも疲れていた。
だったら映画ならどうだろう。
同じものを見ていればいい。
ずっと会話を続けなくてもいい。
「次は何して遊ぶ?」と考え続けなくても、
映画が流れているあいだは時間が進んでくれる。
そんな、少し後ろ向きとも言える理由で、
私は娘と映画館へ向かった。
作品は、娘もお気に入りの『トイ・ストーリー』。
でも、出かける直前まで少し迷っていた。
疲れているのに、本当に出かけて大丈夫かな。
家で過ごした方が楽なんじゃないかな。
そんな気持ちもあった。
パパとでは怖い映画も、ママとなら見られる
娘は、映画の緊迫したシーンが少し苦手だ。
パパと二人で映画を見に行ったときには、
怖くなって途中で退場し、
そのまま帰ってきたこともある。
ところが不思議なことに、
私と一緒なら耐えられるらしい。
怖い場面があっても、
私となら最後まで見られる。
普段は、
「パパと遊ぶ方が楽しい」
「ママは遊んでくれない」
なんて言われることもある。
確かにそうだと思う。
パパの方が、娘の好きな遊びに付き合うのは上手なのかもしれない。
でも、映画館の暗闇の中では、
私だからできることもあるらしい。
そのことが、少し嬉しかった。
映画が終わる頃、娘の見え方が変わっていた
そして、映画を見終わる頃。
自分でも予想していなかった感覚が、ふっと湧いてきた。
この子は、私の味方なんだ。
そんなふうに思った。
まだ5歳だ。
もちろん、私が守る側であることには変わりない。
それなのに、
一緒に出かけて、
同じ作品を見て、
同じ時間を過ごして、
帰り道には感想を話せる。
「この子って、私の相棒みたいな存在でもあるんだな」
と思った。
敵だと思っていたわけではない。
娘のせいで休めない、と思っていたわけでもない。
それでも、家で二人きりだったときには、
こんなふうに娘を「一緒に世界を見る相手」として感じることは、
なかなかなかった。
家では「母親と子ども」になりすぎるのかもしれない
どうして映画を見ただけで、そんなふうに思えたのだろう。
娘が静かにしていてくれたからだろうか。
私が何かを提供し続けなくてよかったからだろうか。
それとも、単純にエンタメの力なのだろうか。
たぶん、全部なのだと思う。
でも、もう一つある気がしている。
家にいると、私はずっと「母親」になる。
「片付けて」
「それは使わないで」
「YouTubeはそろそろおしまい」
「何して遊ぶ?」
「お昼ごはんどうしよう」
「危ないよ」
娘が何かをするたびに、私は判断する。
許可する。
止める。
用意する。
片付ける。
応える。
いつの間にか、
「要求する子ども」と「応える母親」
という関係になっていたのかもしれない。
でも映画館では違った。
娘も私も、同じ作品を見る観客だった。
私が娘を楽しませなくてもいい。
目の前の物語が、二人を楽しませてくれる。
笑ったり、
怖がったり、
驚いたり。
私は娘に何かを「してあげる人」ではなくて、
同じものを一緒に楽しむ人
になれた。
だから映画館を出たとき、
隣を歩いている小さな人が、
少し違って見えたのかもしれない。
帰り道まで、楽しかった
映画を見終わって、そのまま帰宅したわけではない。
ちょっと寄り道をした。
映画の感想を話した。
どうでもいい雑談もした。
娘はとても嬉しそうだった。
「ママとデート!」
と言って喜んでくれた。
私も楽しかった。
少し前まで、
「ママじゃ楽しくない」
と言われることが辛かった。
でも、そうか。
私は娘とブロックで何時間も遊べる母親にはなれないかもしれない。
工作に延々と付き合うのも、
たぶん得意にはならない。
だけど、
一緒に映画を見たり、
街を歩いたり、
寄り道をしたり、
見たものについて話したり。
そういう時間なら、私は娘と楽しめる。
そして娘も、それを「ママとのデート」と呼んで喜んでくれる。
だったら、これでいいのかもしれない。
「子どもと遊ぶ」だけが、一緒に過ごす方法じゃなかった
私はどこかで、
子どもとの時間を大切にすることは、
子どもの好きな遊びに付き合うことだと思っていたのかもしれない。
でも、親子で楽しく過ごす方法は、
それだけではない。
子どもの世界へ親が入っていく方法だけではなく、
親子で一緒に楽しめる世界へ出かけていく方法もある。
映画は、その一つだった。
これは私にとって、結構大きな発見だった。
家にいた方が安全だと思っていた
私はこれまで、
娘と二人きりで出かけることをかなり避けてきた。
外出先で急に体調が悪くなったらどうしよう。
もし私が倒れてしまったらどうしよう。
夫は仕事中ですぐには来られない。
近くに、緊急時に駆けつけてくれる親戚や友人もいない。
だったら家にいた方が、
娘は安全なのではないか。
そんな気持ちが強かった。
だから、娘と二人で出かけることには、
今でも少し緊張する。
もちろん、安全への備えはこれからも必要だと思っている。
疲れた娘が外で騒ぎ出すこともある。
「二人でどんどん出かければいい」
という単純な話でもない。
でも今回、
「家にいること=私にとって一番楽」
でもないのだと知った。
家でじっとしている方が辛い日もある
家にいれば、身体的には楽なはずだった。
移動しなくていい。
荷物も持たなくていい。
暑さも避けられる。
何かあったときにも安心だ。
でも一日中家にいると、
母と子の関係だけで時間を埋めなければならない。
娘は遊んでほしい。
私は休みたい。
娘は退屈する。
私はその退屈をどうにかしなければならない気がする。
そうやって、
二人だけでお互いを消耗させてしまう日もある。
反対に、外には「第三のもの」がある。
映画がある。
景色がある。
お店がある。
道に変なものが落ちていたりする。
「あれ何だろうね」と話すものがある。
二人だけで、
二人の関係を維持し続けなくてもいい。
世界が間に入ってくれる。
もしかすると私は、
娘から離れたかったのではなく、
娘と私だけで閉じた世界に疲れていたのかもしれない。
5歳の娘は、守るだけの存在ではなかった
もちろん、5歳の娘はまだ小さい。
私が守らなければならない。
お世話もしなければならない。
これからもしばらくは、
私が圧倒的に「してあげる側」だろう。
でも、それだけではなかった。
一緒に映画を見られる。
感想を話せる。
寄り道ができる。
くだらないことで笑える。
怖い場面では、
私が隣にいることで安心できるらしい。
そして私は私で、隣に娘がいることで、
「一人じゃないな」
と思う瞬間があった。
親と子という関係は、
こうやって少しずつ変わっていくのかもしれない。
守るだけだった小さな人が、
いつの間にか一緒に世界を見る人になっていく。
あの日、映画館を出たとき。
私は5歳の娘を見ながら、
「この子は私の相棒なんだ」
と、初めて少しだけ思った。
「ママとデート!」
と喜んでくれた娘に、
私の方こそ、ありがとうと思う。
子どもの遊びが得意じゃなくても。
毎日上手に遊んであげられなくても。
私たちには私たちなりの、
一緒に楽しくいられる方法がある。
夏休みの終わりに、それを一つ見つけられた。
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